|
ロンドンから南西へ約20キロ、テムズ川の上流にたたずむハンプトン・コートは英国を代表する宮殿のひとつです。1514年、ヨーク大司教トマス・ウォルジーが自らの別荘とするために建設したもので、チューダー朝様式と呼ばれるレンガ張の外壁、木製の切妻屋根、変化に富む塔や煙突が施されており、当時の代表的なカントリー・ハウス(貴族の荘園内の邸宅)です。ヘンリー8世はこの宮殿を大変気に入り、1525年にこの宮殿を謙譲させました。約200年の間、英国王家の宮殿として使用されたハンプトン・コートはチューター朝様式の最も美しい宮殿と称えられていますが、敷地が24万平方メートルに及ぶ庭園は、500年の王室庭園史の縮図でもあります。
1991年から4年の歳月を費やして大規模な復元工事が行われ、長い間、草木が生い茂っていた庭園は、1702年のウィリアム三世の庭園として蘇えりました。当時の植物購入リストなどの記録が丹念に調査され、後期スチュアート朝に流行した草花などが見事に再現されたのです。
プレヴィ・ガーデンからキングス・アパートメントを望む
英国の庭園は時代の流れとともに、フランス式、イタリア式、ランドスケープ・ガーデンへと姿を変えて行きました。19世紀(ビクトリア朝時代)、産業革命によって一般市民の生活が豊かになり、園芸の楽しみが貴族から庶民層に広がるまでは、庭造りを楽しむことができたのは貴族階級のごく一部の富裕層に限られていました。
ウィリアム三世とメアリー王妃は、英国史上初めて共同統治を行ったことで有名ですが、1689年、ロンドンからハンプトン・コートに移り住みました。二人は園芸愛好家としても有名で、サー・クリストファー・レンに宮殿の大改築を命じ、さらにオランダのヘット・ロー宮殿の庭造りを手がけたダニエル・マローを庭師に起用し、壮大なプランで庭造りに着工しました。メアリー王妃は、オランダの東インド会社を通じて珍種の植物を取り寄せ、プラントハンターを遠く北アメリカやカナリー諸島に派遣して珍しい植物を収集しました。チューダー朝は、植物を薬草学的に研究した時代で、王家や貴族は広大な薬草園を所有し、庭造りにも薬草(ハーブ)を取り入れる傾向にありましたが、スチュアート朝は、植物に装飾的要素を求めはじめた時代です。当時のプラントハンターが世界中から持ち帰った珍しい植物の中には、ガリカ種のオールド・ローズ(Rosa
gallica versicolor)、オダマキ(Aquiliegia Canadensis)やナスタチューム(Tropaeolum
majus)など、現在私たちに馴染み深い植物が多数含まれています。宮殿のキングス・アパートメントからは、王と妃の秘密の花園として名高いプレヴィ・ガーデンを一望することができます。キングス・アパートメントは、王の執務室、応接室、書斎、プライベート用住居、そして1Fにはオランジェリー(冬の間暖房を焚いて、オレンジの木や月桂樹などを冬の寒さから守った部屋)が設けられています。ウィリアム三世がオランダのオレンジ家の出身であったことから、オレンジの木はウィリアムとメアリーが共同統治する英国で大流行しました。
テラスに並ぶオレンジの木
宮殿の南側の庭園が王と王妃のプライベート空間です。プレヴィ・ガーデンから眺めるテムズ川は昔と変わらず、ゆったりと流れ、プレヴィ・ガーデンの西にはノット・ガーデン、その奥のポンド・ガーデンは手入れの行き届いた百花が咲き乱れていました。オレンジやオリーブの木はオランジェリーの前のテラスに行儀よく並んでいました。南側の庭園の温室には、グレート・バインと呼ばれる葡萄の大木があります。ジョージ3世に任命された庭師、ランセロット・ブラウンが植えたもので、世界最古の葡萄の木といわれています。当時の宮殿ではこの葡萄からワインをつくっていました。宮殿内のワインセラーには、当時のままに大きなワイン樽がいくつも展示されています。現在でも毎年230〜320kgの収穫があるとのことで、園内のショップで期間限定のオリジナル・ワインを購入することができます。
世界最古の葡萄の木 グレート・バイン
宮殿の北側は、ヘンリー8世が遊んだとして名高いメーズ(迷路)、ティルヤード(馬上槍大会の会場の意)、ローズ・ガーデン、ハーベシャス・ガーデン(草本を収集したハーブガーデン)、ティルヤード・レストランがあります。ヘンリー8世の時代は、そこには広大な果樹園が広がっていました。ローズ・ガーデンは、春、夏、秋を通してバラの芳香が漂っています。その香りは優雅でやさしい香りというよりは、大地を想わせるような力強い香りを感じました。バラは、イングランド、スコットランド、アイルランド、フランスを象徴する花として、ウィリアム3世とメアリー王妃が特に愛した花でした。当時、ケンティフォーリアローズが珍重され、ガーデンだけでなく宮殿の装飾にもローズのモチーフが頻繁に使用されました。ローズ・ガーデンでは、ふくよかな芳香を放つケンティフォーリアローズを楽しむことができます。9月下旬、ローズ・ガーデンのレンガ壁を覆う野生種バラの葉はすでにバターイエローに変わり、つややかな大きな赤い実がやわらかな秋の日差しを浴びていました。
つややかで大きなローズヒップ
バラ園をさらに奥に入ると、ハーベシャス・ガーデンがあります。初夏から秋にかけて、ここでは様々な花、草木が自然な姿そのままに個性を主張しあいながら元気よく咲き誇ります。秋のハーベシャス・ガーデンは、他の庭園とは趣が異なり、すでに秋色を濃く落とし始めていました。キャットニップ、ノコギリソウやフェンネルなどのハーブ種はすでに花の盛りを過ぎており、次の季節に花をつけるために種を落とし葉を枯らし、植物が自ら冬支度を始めていました。紅葉した葉が秋風に舞いながらハラハラと芝生の上に落ちていきます。緑のパレットに赤や木の絵の具で描くかのように一枚一枚、美しい葉を重ねていく様は、見るものの心を奪います。このハーベシャス・ガーデンでは、「秋の庭は寂しい」などという固定観念は吹き飛ばされます。春には花を咲かせ、秋には実を結び、葉を落とし、冬はすべてが眠る・・。それぞれの季節を通して五感に訴えかけてくる生命力の力強さをあらためて感じさせれました。英国の歴史が揺れ動く中で、遥か彼方の国々から運ばれた植物は、しっかりと大地に根を張り、季節ごとに生命の営みを繰り返しながら息づいています。
ハーベシャス・ガーデン
1689年5月に着工したキングス・アパートメントの工事は、1694年、メアリー王妃の急逝により、王は失意で工事を中断します。その後、欧州への戦争参戦で工事資金が賄えず、また1698年には宮殿の一部が焼失するなど数々の不幸に見舞われながらも1700年にようやく完成しました。しかし、1702年、ウィリアム王はハンプトン・コート・パークでの落馬が原因で逝去してしまいました。
ウィリアム王とメアリー王妃は、新しい宮殿で仲むつまじく暮らすことも、壮大な意匠と莫大な費用をもって建設した庭園を散策こともありませんでした。けれども、長い年月を経て、
宮殿のキングス・アパートメントの窓の外には美しい庭園が広がり、テムズ川がゆったりと流れています。(2001年11月15日)
|